昭和56年4月18日 朝の御理解  入力者松本正宏


 御理解第二十一節「信心せよ。信心とは、わが心が神に向かうのを信心というのじゃ。神徳の中におっても、氏子に信なければおかげはなし。カンテラに油いっぱいあっても、芯がなければ火がともらず。火がともらねば夜は闇なり。信心なければ世界が闇なり。」
 よく、皆さんがどうぞ神様に喜んで頂くような信心をさせて下さいという願いをなさいます。何が一番神様が信じてくださるか、喜んでくださるかと、これは人間でも同じですけれども、人に信じられるというほど嬉しいことはありませんね。天地の親神様も同じです。氏子が神を信じてくれるというほど神様のお喜びはなかろうと思う。信心とは我心が神に向かうのを信心というのじゃと。言うなら信じる力というか信じる事の出来る事がいよいよ確信というところまで高められていく。そこから私共がまた、神様から信じられる、神様を信じ神様から信じられる、そういう世界が心の上に自分の周辺にいわゆる世界中がそういう信の光でいっぱいになる時にいよいよ、神様のお喜びと言う事になるのです。ね。心が物の見方考え方というのがおかげの頂けれる者の考え方。ね。見方が出来るようになる、それは神様を信じるがゆえにであります。どういう時であっても神様を信じておる。一切神愛と信じておる。信じておるから心が安らぐのです。ね。
 例えばちょっとした事でも自分の気分の良い、ありがたい時には事がスムーズに運ぶでしょうが。イライラモヤモヤしておる時に限って事故は起こるのです。神様を信じる力が弱いからです。神様を信じる力がいよいよ強くなってくると心はいつもいわゆる平生でおれれるのです。ちょっとした事柄でも心が安らいでおる時では面どくさいなあと思うことでもありがたく出来る。はあ面どくさいというような時には確かにその事が面どくさい事になって、起きて来る事も面どくさい事が起きてくる。ね。ありがたいなあという神様を信じるがゆえに心が安らぐ。安らぐから安らげる喜ばせて頂く事が起きてくるのです。何が神様が一番喜ばれるか、私共が神様をいよいよ信じて疑わない信心に進んで行くという事が神様の一番の喜びです。そこから心が安らぐ、物事が順調になってくる。おかげを頂いてくる。いよいよ、信心にならざるを得ない。そこから神様から信じられる私共、神様から信じられる氏子としてのおかげが頂かれる。いわゆる信じ信じられる事。これは親子でもそうです。友人関係でもそうです。自分の周囲に自分を信じてくれるという事。また自分もその人を信じれれると言う事ほど幸せな事はないです。
 本当にあの人は私を信じておって下さると思う事は嬉しいでしょう。皆さん。それにはやっぱ人に信じられるようにいわゆる、実意丁寧。いうならば、いう事する事がいうならば天地の道理にかなうた生き方をしなければ、人に信じられると言う事は出来ません。ね。信じられると言う事は嬉しい。また、信じられる人を持つとか、友人を持つとか夫婦の間でも親子の間でも信じ信じられるほどありがたい事はありません。信じられる事ほどありがたい事はありません。神様を信じる。それが神様が喜んで下さる事です。これは人間でも自分が信じられると言う事がありがたい嬉しいものであると同じ事。そんならいうならまた、信じられる自分になる精進。そこからまた、信じ信じられる世界が。ね。
 信心なければ世界が闇という事はただ神様を拝む仏様を拝むという事ではないのです。いわゆる信じ信じられるそういう世界がなからなければいうならば、まず、家庭の中が闇です。ね。親子夫婦が信じられない家庭なんて、本当に真っ暗だと思うです。信じ信じられる世界が本当に広がって行くという事がね、世界に光をいうなら大きくして行く事です。信じられておると思うた嬉しい。なら神様も同じ事。神様がお喜び頂けれるようないうなら信心。そういう信じる心が確信とまで高めれられて行く時に神様のお喜び、いうならスムーズなおかげが開かれてくる。いよいよ神様を信じ、信じられるいうなら信心精進がなされていく。心の中に光が家の中に光がそれが世界に潤うような大きな光ともなっていくというおかげを頂くと言う事はまず自分の心から神様を信じる心が開け大きくなって行く事だと思います。
                                     どうぞ いっぺん思うてみなきゃならん。家内が私を信じておるだろうか。自分は家内をどの程度信じておるだろうか。親子が中の良い友達同士がね、本当に、いうならばあの人は間違いがない、あの氏子は間違いがないと神様からも信じられる。為には自分が先ず信じる事の出きる信心をひとつ、その手立てをいよいよ頂かなければならない。合楽理念に基づく一切が、それが私は信じられる、信じる事の出来れる力をいよいよ頂けれるものだと思うのです。